十日、秋田から帰って参りました。
いつの間にか、お正月は終わっていました。
この歳で、喪主の妻をするとは思っても居ませんでした。
ここに書いていた不安はすべて的中。
地獄かと思いました。
鍵も電気もないぼっとん便所は最初、我が目を疑いました。
たくさんの親戚が集まるなか、こっそりと外にでて
号泣した日もありました。
帰りたくても、目の前にはただただ日本海が広がるばかりで
途方に暮れていました。
ど田舎のしきたりには驚かされっぱなしでした。
喪主とその家族はじぶんたちだけで外に出てはいけない。
特に喪主は出てはいけない。
運転をしてはいけない。
家のなかに、喪主とその家族だけを残してはいけない。
これは相当きついことでした。
だからずっと、親戚の方が泊まりに来ていました。
古くて狭くて物だらけの、亡き義父の家。
そこに大勢で、初めて会う人たちと雑魚寝の日々でした。
しまいっぱなしのいつのものやら知れぬお布団をだして、
足りないからお座布団も布団代わり。
祭壇のろうそくとお線香を絶やさぬ様、親戚の方々始め
皆、殆ど寝ないで番をする日々。
義父は、亡くなってから数日発見されませんでした。
大晦日に亡くなったと云うことが一応わかったのですが、
発見されたのは四日でした。
自宅でベッドにもたれかかる様に亡くなっていたと云います。
夜毎、ドアの音や足音のような気配が頻繁にしました。
物凄く大きな音。
あちらの方は、そんなことは当たり前、だと云う様に
平然と話します。
昨日うちにも来てたよ、なんて、平気で云うのです。
「怖い」などと云うと失礼なのかもしれないけれど、じぶんには
そう云う感覚は一切ないと思っていたのに実際にこんなにも
あからさまに音がする・・。
泣きそうになりながら浅い眠りを漸く得る、と云った夜が
続きました。
ほんとに辛くて辛くて。
なにもかも辛くて。
覚悟して行った以上の辛さでした。
でも夫も、喪主としての仕事がたくさんで、いっぱいいっぱい。
支えなくてはと云う気持ちもあるから我慢しようとしました。
でも、そんななかでもわたしを気遣い心配して優しくして
くれた夫。
彼がいちばん解ってくれていたんです。
この環境でわたしが大丈夫なわけがない・・って。
申し訳ないと云う気持でいっぱいでしたが、やっぱりとても
嬉しかった。
有難う、と心から思いました。
結局支えられてしまったけれど、でもだからこそ、支えたい、と
更に思うことができました。
わたしにできることを精一杯、最後までやろうと決意しました。
滞在半分を過ぎた頃から、だいぶん慣れてきました。
何より救われたのは、わたしたちを支えてくれたひとたちが
とても温かかったこと。
親戚の方々は皆、田舎のひと、と云う感じで、気さくで良い方ばかり。
義父の知人という方もお手伝いに来て、たくさん助けてくれました。
何も知らないわたしと義妹のことを誰一人責めることなく、
優しく教え、そして率先して色々とやってくれました。
田舎ならではの、助け合いの精神を体験しました。
こどもたちも皆良い子で、なついてくれて可愛かった。
こどもが苦手で有名(?)なわたしですが、彼らはほんとうに
可愛かった。
いや、良い感じで大きかったからかな。
対等に接することができる年齢のこどもは、わたしは割と
いける方なのです。
向こうの皆さんこそ、初め、堅い表情で無口なわたしのことを
構えて見ていたと思います。
ここはわたしの居る場所じゃない、と決め付けて心を閉ざして
居たわたし。
でも、明るくてたのしいお喋りを続ける皆さんと可愛いこども
たちのなかで濃い時間を過ごすうち、心がほろほろとほどけて
いくのがわかりました。
それからは、彼らのなかで自然にたのしむことができる様に
なっていきました。
そして、数え切れない支えを戴いて、感謝の気持ちでいっぱいです。
厭味を云ったり意地悪をしたりする人はひとりもいなかった。
お葬式まで毎日、お膳(揚げ物、煮物、お浸し、ご飯、お味噌汁)を
供えるのですが、つくり方も優しく教えてくださり、義妹と
見よう見まねでお台所に立ちました。
夫はとても頑張っていました。
いつもの彼とは全く違った表情で毎日しんどそうだったけど、
彼もまた、皆さんの人柄に救われた部分があったのでは、と
思います。
お葬式の前日、式が執り行われる自宅を綺麗にお掃除している
姿が印象的でした。
物だらけで、お世辞でも整然としているとは云えない部屋だけど、
できるだけ綺麗にしてその日を迎えようとしているところが、
彼らしい、と思いました。
凄く。
自然体の彼らしく、火葬の後の挨拶も、お葬式の喪主の挨拶も、
とてもとても良かった。
背伸びが無く心がこもっていて、今想いだしても涙がでてきます。
正直なことを書きますと、義父とはそんなに会ったことがなくて
お付き合いも薄かったので、わたし個人としては、「悲しい」と云う
感情はそんなにありません。
でも、夫の横顔、背中を見るだけで、目が潤みます。
彼の気持ち、色んなことが複雑に絡み合った感情が想像できて、
心から彼を愛おしく思うのでした。
やっと、明日帰ってきます。
空港まで迎えにいこうと思います。
でも、これですべて終わったわけではありません。
あちらの家の処分が未だ残っているので、彼の仕事が一段落する春頃、
また行かなくてはなりません。
色々な手続きも残っていますし・・いや、ほんとうに大変です。
よく考えれば、長男の嫁も何も無いんですね。
義母はずっと、もう十何年も入院したままなので、今回は
一切参加できていません。
未だ、義父の死を知らせてもいません。
参加した家族は義妹と夫のふたりだけ。
だから、ふたりがほんとうに力を合わせてやっていました。
義妹は色々と、ほんとうはわたしがやらなくてはならないこと
だったかも知れないけれど、やってくれました。
義妹と云いつつ年上のお姉さんなので、わたしも頼りにしていました。
わたしにできたことは大したことではなかったと思うけれど、
でも、一所懸命やったつもりです。
こんな時でさえ夫に慰めて貰った場面があったのは、やっぱり
いつものわたしだったな・・と落ち込んでしまいましたが、
それでも、慣れてきてからは、自ら動いて頑張ったつもりです。
今まで何の気持ちも持ち得なかった、秋田の男鹿。
故人がもたらす人と人の繋がりや優しさ、順応するということ、
辛さの向こうにあるもの、心をほどくと云うこと、家族の愛、
支えると云うこと、そして、しきたりの持つ意味。
余りに濃密な五日間に巡らせた様々な想いの所為でしょうか、
心に深く残る土地となりました。
家から歩いて十五秒で、砂浜に出ることができました。
これだけが唯一、わたしが行ってすぐ心から気に入ったところです。
泣いた日も、海を見ました。
海の傍の生活を少し思い浮かべてみたりもしました。
もしかしたら、また、旅行として行きたくなるかも知れません。
良くしてくれた皆さんにもお会いしたい気持ちがあります。
最後、こんな風な気持ちで飛行機に乗ることができて、
ほんとうに良かったです。
辛かったこと全部、わたしの血となり肉となったと思っています。
そして何より、夫をもっともっと好きになりました。
もっともっと、大切なひとになりました。
いつも支えて貰ってばかりで、どちらかと云うとわたしにとっては
それが当たり前になっていたのですが、今回、素直に、わたしに
できる範囲で支えてあげたいと自覚する様になりました。
向こうに居る時、「ずっと仲良く暮らしていこうね」とふと彼が
呟きました。
多分、色々とあった末に義母が病院から出られない身体になって、
最終的に義父がたったひとりで死んでいったことを切なく想って、
そんなことを云ったのだと思います。
そのことばを今こうして想いだしながら書いているだけで、
なんだか解らないけれど涙がでてきます。
わたしは、病気からきているのだと思いますが、毎日ただ、
命があるから生きている、と云う状態です。
どういうことかというのは詳しく書くと長くなっちゃうので
止めますが、そんなわたしのことを大切に想ってくれるひとが
居るなんて、時々ほんとうに信じられなくなります。
でも、ずっと一緒に居られたら良いな、と思う。
義父の亡くなり方はやはり悲しい。
義父が亡くなったことをもし知らせても余り理解できないで
あろう義母もやはり、悲しい。
夫の願いを、力を合わせて叶えていけたら良いと思う。
わたしの力はきっと微々たるものだけど、なんだろう・・・
ただそこにある命を仕方が無いから生きている、じゃなくて、
じぶんから進んでたのしむ命、輝かせる命、を実感しながら
生きていける様になったら、まあつまりは病気がちゃんと
治ったらって云うことだと思うけど、それはきっと、夫が
喜んでくれることなんじゃないかな。
愛されるよりも愛したいマジで
って云うのはわたしの場合全く逆です。
愛されるよりも・・って、あ、やっぱ愛されたいマジで
て感じなのですが。
でも、「愛する」ことにもっと重きを置いていきたい、と
今回強く強く想った次第です。
支えること、見守ること、温かく包むこと。
五日間で起きたわたしのなかの色々な変化と、
学んだ色々なことを忘れない様に暮らしていけたら。
未だ新年なのに、もう一年が終わった様な、それくらいの
時間だった、と云うお話です。